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革靴ははじめて空を歩いた

  • 執筆者の写真: すずめや
    すずめや
  • 2025年12月6日
  • 読了時間: 5分

革靴は時の止まったデパートの紳士服売り場にかかとをあげてすわっていた。

そのあたりに住む紳士が絶滅して数年になるが、時の止まったデパートのなかでは従業員もみな止まっているので紳士服売り場はずっとそこにあって、革靴もただずっとそこにいるのだった。

退屈のあくびも吐き尽くして、やわらかに笑んだまま止まっている従業員にもうすく重なってゆくほこりの層が目立つようになってきたころ、スイスから時計職人がやってきた。


時計職人は遠くの土地から旅をしてきた紳士で、仕事中にジャケットの裾のボタンをひっかけてしまったのだった。

機械油の染みがうすくこびりついているシャツも新調したかったので、時計職人は時の止まったデパートの、一階吹抜けの大時計を直すことにした。

ぬいぐるみ売り場のバックヤードに積まれていた、いちばん大きなテディベアを納めるためのいちばん大きな箱をいくつも積み上げて階段をつくり、時の止まった時計の顔をぎいと開いた。

時計職人が仕事を終えたのはきっかり午後の二時、大時計のからくり扉から二匹のブロンズの象がでてきてぱおんぱおんと鳴いた。

時計職人は自分の乗っていたいちばん上の箱のふたをひっくり返して箱の階段を颯爽と滑り降りて、五階の紳士服売り場でシャツを買い、ジャケットの裾のボタンを直してもらって旅を続けた。


時の止まったデパートの時が大時計とともに動き出してしばらく経って、デパートの社長はこのあたりの紳士が絶滅してしまったことを承知した。そして紳士服売り場をつぶしておもちゃ売り場を増やすことにした。

ちかごろは大人も子供のように遊ぶのだ。

遊ぶ大人が増えたことは紳士の絶滅の一端を担っていた。

紳士服売り場を片付けなければならなくなって、急いでおもちゃ売り場を作りたい従業員たちはとにかくすべての品物を箱に詰めて奥の棚に収めてしまうことにした。

革靴もかかとをおろして箱のなかに横倒しに寝かされて、奥の棚に収められた。

手前の棚にはこれからおもちゃ売り場に出されるおもちゃたちがこれまた箱に詰められて並んでいた。

革靴は見慣れない青い絵の描かれた細長いひとつの箱に向かって、きみの箱に描いてあるのは何の絵なんだいと尋ねた。

細長い箱の中身はおもちゃのロケットで、ロケットはこれは僕が飛ぶことになる空というものの絵だと答えた。

革靴は工場で生まれて紳士服売り場にやってきたので空を見たことがなかったし、ロケットもそれは同じなのだった。

革靴はこんなきれいな青はどんなジャケットにもネクタイにもシャツにも使われていなかったなあと思った。こういう青をほんとうに見てみたかったなあと箱の中でため息をついた。


おもちゃ売り場のおもちゃは良く売れたので、しまいこまれていた紳士服売り場の箱たちは奥の棚から追われてぜんぶが地下のごみ捨て場に放り投げられた。

放り投げられた拍子に革靴の箱はぱかんと開いて、革靴は真っ暗でほこりとカビの臭いにまみれたひどい場所に捨てられたのを知った。

清潔であかるくきちんと整えられ、スポットライトまでついていた紳士服売り場からこんな暗くて臭いごみ捨て場に放り投げられた革靴は情けなくってすこしだけ泣いた。

泣いたけれども革靴は、自分が歩けることを知っていた。売れ残りはしたものの、いつかは紳士が革靴を履いて、売り場を試しに歩き回ったことがあったのだ。

打ち捨てられた箱の中、ふたが開いたのは革靴の箱だけだった。革靴はひとりで歩き出した。一緒に売り場で過ごしたジャケットもネクタイもシャツも、歩くことができないのを革靴は知っていたので、みんなの顔が最後に見られなくてよかったと、心の奥で思っていた。


地下から這い出て一階に出ると、明るいデパートの音楽とひかりが溢れていて、革靴は壁づたいに歩いていった。

するとデパートの大きなガラス扉の出入り口にたどり着いた。そこでは背の高い道化師が、デパートの名前の入った大きな風船を出入りするお客に配っていた。

その道化師はかつてはほこりをかぶっていた紳士服売り場の従業員で、革靴を認めてその行き先を尋ねた。

革靴は空というものを見にいってみたいのだ、と答えた。

すると道化師は化粧の顔でうんうんとうなづいて、持っていたたくさんの風船を革靴にみんなくくりつけてくれた。


外に出るなり革靴は、初めて受ける太陽のひかりと、その後ろに広がる青い青い空とに目を見張った。体温がどくどくと上昇するとともに、自分のからだが空へと登っていくのを感じた。

従業員は飛んでゆく革靴をみて、道化師の化粧の下でほんとうに笑った。

これは彼なりの紳士服売り場の葬式でもあったのだ。


浮いていった革靴は、デパートの倍ほどの高さまできたところで大きな風に吹かれてまた一段と高く昇った。その大きな風には鳥の隊列が乗っていて、鳥たちは隊列を崩す邪魔な風船だとばかりにたくさんのくちばしでたくさんの風船を残らず割ってしまった。

すると風船の浮力で上に引っ張られていた紐が緩んで革靴は身二つになってしまった。

けれども革靴は時の止まってしまうまえからずっとかかとをあげていたので、そのまま革靴ははじめて空を歩いた。

そのかかとは軽く鳴りひびき、めずらしいものを見た と雲はおどろいて言った。



 
 
 

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