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  • 執筆者の写真すずめや

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MOTOYA Book Cafe Galleryさんでの展示会に出品しています。

いつものノートじゃなくて、本というものについてちかごろ考えていることをかたちにして一点出品しました。


毎日本を作っているので本のことをよく考える。

本ってなんだろか、というところから考える。

わたしはいま、一生の仕事として、あなたの物語を綴じる本、ということでノートばっかり作っている。

本というのは読み取れる物語のあるものだと思う。

それは万人にわかることばである必要はない。

ちかごろはたとえば柱に刻まれた身長を測る傷だって、もうこれは本だと、思うようになった。

人の服装、たたずまい、枯れた草、飛んでいる蝶々、はっぱひとつとっても見ればなにもかも違うのだからこれは本だ。

本じゃないものなんてあるだろうか。

量産されたプラスチックのコップだって、おんなじように並んでいるけれどここに来る前の道のりも誕生の瞬間もあった。

それを思えば物語である。

こんなことを考えてしまったら、製本家なんて名乗ってる自分はいったいなんのつもりでそんなことを言うのかってことになってしまう。


でも思ってる、ここのところ、そう思っている。


すこし怖い。

製本家という、言葉がむずかしい。

なんだか区切りがあるように思えて怖くなるのだ。

作家、製本家、アーティスト、クリエーター、なにもどうもしっくりこない、ただ考えて作り続けることができているだけだ。

いつも正解はただそれだけのことなんだってことに行きつくんだけど社会に紹介することになると何かをつけなきゃならなくて、だって相手はどこに住んでて何が好きなのかもわからない、同じ言語野(異国語って意味じゃなくて)のひとかどうかもわからないし、じゃあみんなにわかることばで名乗らなきゃならない。

名乗らなきゃならないのかな?

名乗らなきゃ名乗らないでいいのかなあ。

わかりやすく親切に伝えようとするのが間違ってるのかもしれない。

だってわかりづらいことをしてるんだから。

言葉を尽くしてわかりづらいことを伝えるというのがいい道だろうか。


こんなふうに整理していくと、こんなとこまでブログを読みにきてくださっている方々のことを、同じ言語野の方々だと信じている様子が俯瞰できる。

きっと言ってることわかるよねえ。

でもこれがむつかしいことだというのもわかるよねえ。


なんかでもこの、読み取れる物語のあるものは全て本、というのがちょっとでっかい思考のかたまりでして、なんか、こう、ここでちょっと、ん〜、なんか、変わりそうな、変化の種、のような、種というよりたまごのようで、こいつがいつぱかんと割れてなにが産まれるか、それにも恐々としている。



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