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執筆者の写真すずめや

澄んでいく

世界のことは、全体主義的に俯瞰していると思う、たぶん。

一分一秒一瞬、水が跳ねるとか風にそよぐとかのささいなことから事故や天災まで、あらゆることが起こり続けている。

複雑に絡み合い積み重ね、だけどいまのいまのことには一本の紐で繋がっている。


今日は出稼ぎのため大阪にゆくので空港にやってきた。

着くのはお昼をだいぶすぎるので早めのランチをと空港のレストランに来た。

出入り口の外に設置された黒板には、日替わりランチはスパゲティミートソースとある。

日替わりということなのやから、私が全く空港に関係なかった昨日には違うメニューがかかれていた。

おとといも、さきおとといも、あしたも、あさっても、同じ黒板に違うメニューが書かれている。はず。

今日は、スパゲティミートソースだった。


スパゲティミートソースと書いたチョークは何人もの指先によって使われ、日々を過ごしている。

昨日チョークを掴んだ人の手を知っているだろうか。

昨日のチョークは今日のチョークよりすこしばかり長かった。

スパゲティのスを書いた時のチョークと、ミートソースのスを書いたチョークは同じチョークだけれどすこし違う。

いつでもなにかが起こっている。

わたしは黒板のメニューを見て、スパゲティミートソースを注文した。


そういうことの繰り返しで世界は成っている。

人の感情が絡んでもおんなじこと。


人が近くにいたころは、というか人生の大半がそうだったはずなのだが、そういう常に起こり続ける変化や渦は濁流で、波を乗りこなす日々であった。

岩手の奥にやってきて、周りに人がいなくなって、変化や渦は感情や都合ではなく自然の営みによるものになった。

お互いに人の歩き方や目線や手のしぐさから様子を読み取りあって一分一秒一瞬が過ぎてゆくことがなくなった。


最近人のそばで暮らしていた膨大な時間のことを思い出す。

苦しかったことややらかしてしまったことやしんどかったことを思い出す。

楽しかったことも嬉しかったことも奇跡に出会ったことも思い出す。

でもそれは引越して半月も経たないのにずいぶん遠くの記憶になってしまった。

霞がかって、おぼろげ。

ほかの国でほかの誰かが体験したことを、本に読んだような、そんな本を昔読んだような。

これはなんだろうかと思う。

ビーカーのなかに泥水を入れてかき混ぜて、泥は石と砂になり、順に積もり、上の水が澄んでいくような、かんじ。


泥は底で眠っている。

渦だった水は水になった。

濁流だったときも泥水だったときも渦だったときもずっと水だったけどいまは透明に澄んだ水になった。

こんな感覚でただ生きたことはいままでになかった。

起きて、暮らし、眠る。

それはおんなじ、おんなじだのに違う。


大都会に出稼ぎにいくことで日々の糧の大半を賄っている、ひと月に一週間ほど、長く家を離れる、人だらけの街に行って、たくさんの人と触れ合って、暮らしの糧を得る。

だからより、わからなくなる。

ビーカーの底の泥を掬って、ああそうだ、こうやるんだった、って思い出して過ごす。

だからコミュニケーションはずいぶん下手くそになった。

コミュニケーションが下手くそだっていうことは、そういえばそれは恐ろしいことで、誤解や偏見や弱点になってしまうんだから、最大限気をつけなくちゃならないことだった。

だからものすごく頑張っていたし、上手にできていたと思うんだけど。

でももう、いま、それは恐ろしいことではなくなった。

いつもしあわせでいるために常に何かをがんばっていた。

身の回りにきちんとしたものや洒落たものやいわゆるよいものを集めて、そういうにおいで自分を慰めたり他者にある意味での威嚇をしたり、していたと思う。

もう、それはしなくてもいいことになった。

できないことも増えた。

ほんとうは性に合わないのに、できているほうが都合がよく、より良い人間でいられるということのほうが大切だったから、性に合わないのに無理にそれを好きになってできていたこと。

初対面の人と気が合うところをどこかしら、素早く見つけてあっというまに仲良くなること、ひとのおうちにお呼ばれすること、自分の大切なお店や空間を自慢すること、芯からのリスペクトや魅力を感じられない人と、つまりだれとでもと、付き合ったり繋がったりでかけたりとか、そういうこと。

濁流はけして悪いことだとは思わないしそのときはそのときで楽しんでいたとも思う。

ただ、流れというのは大きな岩の角まで削ってしまうほどの威力がある。

家に帰ると水はまたあっという間に澄んでしまう。

素晴らしく平和でしあわせなくらしがただそこにある。


この状態ってなんなんだろう。

いまの結果はこうなんだから、こうなるために、もしくはここへの道筋として、いままでがあったんだろうと思うけど、どういうことなのかはわからない。

絵の具が滲んでいくときのように、思考や計画の届かないところで、水のなかで、わたしの指先が筆をはじいた結果とはどうしても信じられないような、うつくしいものが、できあがっていくみたいだ。

こんなわたしだったことはいままでなかった。

なんだか、なにもかもを忘れてしまったみたいだ。

新しく産まれなおしたみたいだ。


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