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新しいのをいろいろ

  • 執筆者の写真: すずめや
    すずめや
  • 3 時間前
  • 読了時間: 4分

先日の丸善出展中、暇な時間に余った包装紙を切って封筒をつくり、ノベルティでお渡ししていた。

コンビニに置いてあるATMの現金封筒のサイズ、そのへんにあった厚紙で展開図を引き、以前つくった自前の包装紙を切り取って、丸善で買ったスティックのりでつくった。冷蔵庫のありあわせで作った野菜炒めのようなものだ。


自前の包装紙で作ったにもかかわらず何枚も何枚も作っていると飽きがくる。というか実は包装紙を印刷所に出して、それを商品として仕立てるために袋詰めをしている時点でなかばこの柄に飽きていた。おきゃくさんのお手元に届くのはごく少ない枚数だけれど、わたしは何枚も見続けたので飽きが来るのは当然のことなのかもしれない。けどなんかそのときに、ムラッと、いや、もっといいのが作れるんじゃねえの、という気が湧いた。

こういう負けん気みたいなものを起こしたのは、その出展中に雨が続いて、美しき桜が無惨に散るのを眺め、立派なチューリップの花弁がはげていくのを見ていたからかもしれない。岩手にはまだきてない春がここにはあったってのに、諸行無常だよな、なんて風景が続いた日々だった。

なんか手の中にあるもんで、もっといいのができるんでねえのか、まだ、できることがあるんでねえのか、という気になったのだ。


ふと振り返ると丹精込めて描いたパネルがディスプレイされてこっちを見ていた。我ながらどれもいい出来だと思うし、紙の上ではできない凹凸を持ったジェッソや絵の具の表情はいくら眺めてもただひたすら豊かに展開しているように見えた。

そういえば原画をそのまま売っているけれど、でもこれってば原画を売ってしまったらその人だけのものになってしまうんだよな、と当たり前のことをふと立ち止まって考えた。もちろん絵が売れるのは嬉しい。この感覚についてはなんどかブログで触れてもいると思う。

近ごろパネル作品には短い詩を一遍つけている。

詩がついているな。この詩は、この絵の詩だ。

そうやってそのことについても、立ち止まって考えた。


全て流れの上で、装丁画を作るようになり、積み重ねてなんだか絵が描けるようになり、得意な言葉を添えることにして、わたしは作家なのでそのすべてを生活の糧にしてゆくのだ。あまり立ち止まってそういう流れについて考えることはない。


この絵を、もっといいかたちで印刷に出して、広げてみたいなと思った。


前回の包装紙は完全に文具より、雑貨よりの作り方をした。なんつーかカワイイやつだった。包装紙に似合うように描いた絵だったし、気安いかんじの雰囲気だった。そのときはそういうのが作りたかった。でも今、それがひっかかった。

わたし、あの包装紙、自分ではたぶん買わないよなあ、と思ったのだ。

これはそのものの価値の問題ではなく、キャラクターの問題だ。あのときはなんかみんなに気軽に声をかけたい気分だったけどわたしの性根ってのはそうではない。もっと根暗だしあかるい包装紙を使って贈り物を包むなんてそもそもしたことがない。したことがないのになんかあのときはふらーっと作った。それはそれで酔っ払っているみたいで面白いことだ。


んで今度は、もっと根暗の原点に立ち返り、ちゃんとしらふで紙ものを作ってみようかなと思った。ここでいう紙ものというのは印刷のことだ。手仕事を生業にしていると外注ものを"作る"というのは若干違和感のある使い方だけれどまあ作るは作るのだ。メーカー業でなくプロデュース業だ。わたしはこの絵をもっと、展開してみたいなと思った。色んな人に見てほしいなと思った。いままでは手仕事の延長線上にあった絵を描くということが、分離して独立したかんじだ。

わたしはとても美味しいトマトを直売していた。第二のわたしがそのトマトを瓶詰めにしようと言い出した。なんかそういうかんじだ。生のトマトと瓶詰めのトマト、同じトマトだけれど売り場も見せ方もまったくちがう。生トマトは瓶詰めのようにたくさん溜め込むことはできない。瓶詰めには生トマトのような瑞々しさはない。


東京から帰った次の日に、出展中に入念に組み立てたやり方でさっそく印刷所にデータを送った。

来週末には第一弾がお披露目ができるはず。

手仕事の合間合間に、瓶詰めをつくる。





 
 
 

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