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執筆者の写真すずめや

雨水

二十四節気、雨水。

今日は降る雪が雨に変わるという日なんだそうで、本当にこちらでは雪の予報が外れて雨降りでした。

自然ばっかりの中にいると、暦というのはあたるもんだなってより思うようになりました。

でもこっちはずいぶん雪国だから、たとえば桜の咲くのなんて京都と比べたら1ヶ月くらい違うのに、それでも雨の降るのは当たるんだから不思議なものだ。


不思議不思議、なんかへんなかんじ。

雫石の魅力はそのだだっぴろい平たい風景にある。

どこまでも平たい田畑、むこうにみえる山々の起伏。

その広大な平たい田畑も山々も真っ白で、雪かきをしない田畑なんてその表面に雪が1メートルは積もってるだろうと思われるのに、たくさんたくさん雪があるのに、なんでこれが全部溶ける?

なんでなくなる?


緑もりもりの森が木枯らしではだかんぼになって、木々のかたまりだと視認できたときもとっても同じようにへんだと思った。

あんなに緑緑だったのに、なんでこうなる?


理屈はもちろんわかっていて、そういうもんなんだなって思うのだけど、なんかこのへんだなって思う感覚はたぶんとってもこどものかんじ。

こどものころなんでもなんだかへんだった、なんかそんなかんじ。

わかっちゃいるけど、へんだろ、こんな山盛りの雪が、みんなたいへんだって騒ぐ雪が、太陽とか、雨とかでしぜんに、溶けて、無くなる。

無くなって、畑になって、そこを耕してなにかしらまた植えて、緑が生えて、収穫をし、枯れて片付けて、また雪が積もって、そう、また雪が積もるのやぞ。

なんでだ?なんかへんだね。ふしぎだ。


春になって雪が溶けたら、畑をやるつもり。

畑をやるようになって、もっと自然と寄り添うようになれば、へんだなんて思わなくなるのかな。

なんかね、じっさい目の前でみるとね、

あんまり豊かな自然のうごきって、すぐには飲み込めないのかもしれないね。



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