なんつって泥臭いはなしですけども。
広島に来る前、いくのか?ってけっこうびびっていて、そこでその出発まえに、好きな人が広島の素敵なお店を紹介してくれて、ああ、この人が好きな店がある土地かぁ、とちょっと呼吸ができて、楽になって、まあいま広島にいまして。
無事に広島にいけて、彼女の言っていたお店にもいけて、二日連続で堪能できて、とってもよくって、なんつうかノスタルジックな空間だったんです。
ああこんなふうに、いわゆる青春を焦がしてきた時期があったなあ、しみしみ。
というような。
それだけでもとてもご馳走だったのに、そこから話したひとが繋げてくれて、今日はおんなじ催事の出展者さんとたらふく牡蠣を食べた後にうっとりするような古く、磨きのかかった珈琲やさんにいきました。
バッハが大きな音でかかっていて、わたしは磨き上げられた木の椅子に座って、ほうじ茶か?とおもうような綺麗な綺麗な味のデミタスをいただいて。
そのまえに、牡蠣をご一緒した出展者さんたちは、男性で、ご家庭を持たれていて、まあわたくしもその機会としては悩みのある年頃ですので、ブエエといろいろ聞いていただいたりしていた勢いもあったんですけど、これからどうしよう?ってはなしができたんですよね。
珈琲やさんのマスターは、まあご老人で、ロマンスグレーの髪色がすてきで、好きな人に教えてもらったお店のご主人は見事な金髪で、金と銀でそれはそれは美しいコントラストだなあと思いました。
(並んだわけではないですけど)
銀色のご主人は、未来の話をしてくださいました。
金色のご主人は、過去の話をしてくださいました。
思い返すとほんとうに、不思議な縁のなかで生きている。
ぺしゃんと、つぶれていたんだなあと、こう、膨らましのポンプみたいな方々に出会えて、それはまずおきゃくさまで、そのあとにこういう不思議な縁があるわけですけども、膨らんだら、ああぺしゃんこだったんだなあってようやくわかったりして。
不器用だなあと思います。
こう、いまは不思議不思議といっていても、あとからこの縁の意味がわかったり、生きてきたり、そうなるんですよね。
ひしゃげてようがぺしゃんこだろうが、とにかくあとからの答え合わせみたいなものに出会うには、ただ、たぶん、ただ素直にいること。
雑居ビルの隙間で、エプロンをかけた奥様方が出勤前の一服に煙草をふかしながら笑顔で噂話に興じていたこと。
宿の前の道端で、踏まれてはりついたパンをつつく鳩が、通行人が来るたびに体を避けて、それでもつついていたこと。
鴨川よりもうんと濁った、通勤途中のふたつの川に、魚影があり、夜には鴨川よりも美しく光っていたこと。
銀色のご主人が、あそこへ行きなよとかぶりつくように話してくれたこと。
金色のご主人が、これがあのオルガンだよ、と、地面に足のつかないような調子で話してくれたこと。
誰かと人生をともにしようか、と思った時の、きっかけの話を、飾らずに話してくれた先輩方のこと。
ただ楽しみに、わたしのくるのを待っていてくださって、それでもわたしがはなしかけるまで、いつでもいつまでも控えめなわたしのお客様がたのこと。
愛という言葉を使うのは、いや愛という単語自体が、とてもとても気をつけなければならない単語ですけれども、うん、とても愛に満ちた場が続きました。
よい日々を過ごした。
んでね、素敵な人ばかりに会ったから、だから、素敵な人たちは馬鹿にしないから、わたしは格好悪くても、とにかく素直でいても、まあそれでもいいか、と思えたんでした。ってお話なんでした。

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