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執筆者の写真すずめや

ねっこでながれている

気づきの話。


ひとのしあわせは過剰なほど願うわりに、

ひととしあわせになることから逃げがちなことについて。

なんでだろうな??って確かめたくなって、お月さまの目が閉じている晩に、誰かと一緒にいたいを求めている人たちがたくさんいそうなところへ飛び込んでみました。

めまぐるしかったけど、掴んだ感じがしました。


こないだ衝撃だった最果タヒさんの詩や、大好きな宮沢賢治、知久さんの世界だとか、ノートをつくることや愛する表現全般についての、ねっこにながれているもの。

いつかなくなるいのち、を前提に、それを呑み込んでいる。

激しい表現に聞こえるかもしれないんですが、死、がきほんのねっこだ。

おしまいを特別に思っていない。

いのちを投げやりにしているということではなくて、はじまったからつぎにあるのはおしまいで、だからせかいじゅうが愛おしいんだと、そう愛しているんだのこと。


おしまいになっちゃうから、

だから、だいじにしよう。

そのおしまいは、たとえばじゃあね、また明日。

のじゃあねのすぐあとに来ることだってある。

いま生きていること、あなたがいること、だいじに残してほしい。

そのものがたりを綴ってほしい。

あなたのことがすきだからです。


おしまいがさみしいことを呑み込んだ平野に立っている。

まいにち楽しく生きましょう。

会えるときには会いましょう。

あなたの本を綴じましょう。

最果さんのことばを借りれば、"いつか死んでしまうから"あなたがすきです。

もがきもなみだもわらいもみんな。


解けると、すっとしますね。

そうだった、そうだった、そうだったんだねえ。


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