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  • 執筆者の写真すずめや

ふと思う

最近1000年も前のコインを手に入れました。

めちゃめちゃかっこいいなって思う。


めちゃめちゃかっこいいなって思う作家さんたち、憧れの雲の上の方の人たち、の材料の話なんか見ててふと。

楮100%の和紙とか、陶器にしても土の云々、本藍染とか、建築とか、革とか、鉄とか、ううん。

今手元にあるコインみたいに、きっと1000年もつんだろうな。

それを材料として扱えて、作品に昇華できて、販売するというところまで持っていけてて、かっこいいな。


けどわたしの話になると

なんかそういう材料を、

わたしが触るのにすとんとこないんです。

ええなええなかっこいいな、

一本筋やな、とおもうのにね。

ふーん?なんでかね?と俯瞰にふわふわ思ってたんですけど、は、と思った。


たぶん、いのちあるかぎりにしか世界がない、と捉えているからだろうな。

たしかに手元にあるコイン、1000年前のコイン、その年月はたしかにあったのやろけども、いまわたしが見ている体感しているうちにしかそのコインは存在していない。

生きているうちにしか、実感できる世界はない、と思っているから1000年持つようなものを作るのにすとんとこないのかもしれない。

生きているうちにぼろぼろになっていくものがいいのかもしれない。

生きているうちにくたびれていくものがいいのかもしれないな。

生きているうちは変化の連続だと思っていて、特に言葉は生き物だし、思い出は化石になったり琥珀になったり汚泥になったり花束になったりするものだし、そういうさまざまな変わりようをみる、受け止めるのが人生というものの大きな側面ではないかと思っている。


ほ、ひとつ解けました。

よかったよかった。


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