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執筆者の写真すずめや

うろうろ

昨日は昼のチェックアウトぎりぎりまでのんびりして京都に移動、宿周辺をすこしうろついた。

岩手に行ってからも定期的に恵文社さんに来ているけれど、もうすっかり京都はわたしの街ではない。

16年も住んだのになんだかよそにきたなあというかんじ。

強いて言えばGoogleマップにかじりつかなくても、例えば駅を出て何番出口とか、あそこを右いって左いってとかチェックしなくてもうろつけるってことくらいだ。


ぴかぴかになっちゃった三条大橋をみた。

老舗然としているけれどみたことない新しいお店がそこらに増えて、でもあの古びた喫茶店や民芸品店はまだあった。

街中にはいろんなお出かけの思い出がある。

それは遠い昔のことで、思い出そう、思い出そうと頑張っても霞のように透明だ。

しかしここにいたときは、ここはとっても私の街だった。


そもそも人の中にあるのが苦手だったんだろうな、と俯瞰して思う。

この街は人がぎゅうぎゅうに詰まっている。

小さな路地の入り口にかかる表札、玄関先の小さな植木鉢のなかで伸びる木、掃き清められた道、人の呼吸がそこらじゅうにある。

文化というのは人の手なくして生み出されも続きもしないのだから、そりゃあそういう場所だ。あたり前田のクラッカーである。

まあ不思議なのは苦手なのに16年もここにいたことだ。

夫もおそらく同じ性質、というかわたしよりだいぶ強くその性質があるが彼に至っては生まれてからずっとここにいた。

こんなところにずっといたのに1000キロ離れた山中で人生で最も幸せな時を過ごしているのはへんなことだ。


小匙の底より浅い理解で直感的に言ってみることだが、街がなければロックンロールもヒップホップも現代美術も映画もないなと思う。

では山の中にあるものはなにか。

なんだかそれは言語化のできないなにか。

言葉にすると逃げるなにか。

だから田舎にはなんにもないってことになるのかもしれない。

街と山を往復しているのだから、きっといつか見えるのだろう。


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