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ありよう

執筆者の写真: すずめや
すずめや
2021年12月27日
読了時間: 2分

なにものかということについて引き続き考えてたんですけどなんとなく落ち着きました。


まずなにものか、のことは、社会性動物として、の話で、存在そのものとか個とか自我とかの動物としてとかいのちとか哲学のとこから離します。


なにものかであるということは、

仮面をかぶるとか皮をかぶるとかそういう衣装を着るとかいったことで判断しがち、されがちなのだけれども、

ただその椅子にたまたま座っていただけのこと、なのでないか。

たまたまその椅子に座っていた、それだけが事実ですがわたしたちはくじらのうたみたいに感じたことをそのまま丸ごと伝えることができないため、相手は言外のことでも包括してその人をわからなきゃならない。

わからなきゃならないのことも呪いなかんじがありますけども、歩み寄りってやつのこと。

理解しあうっていうのはとっても難しいことです。

だいたいそういうコミュニケーションの場でつかう言葉は不自由だし不便だから手八丁口八丁(ここでこの言葉を使うのが正しいかどうかわからない)(ほら不便だ)つかって理解しようとする。

そりゃすれ違いもするわな。


すれ違いは無痛ではないけど無傷であることが多いような気がします。

だからなんだか気づかないままになったりするんではないかな。

そのすれ違いがより少なくなれれば良い、のかどうかもよくわからん、思い合うという尊いきもちをどうなら良くてどうしたらだめと言うのは乱暴なかんじがする。


はーでもまあ言語化できてすっきりしたー。

できてんのかこれ。

まあ椅子なのだ、椅子。


 
 
 

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