他動詞的現実と自動詞的現実、という考え方を知りました。
他動詞的現実、
例えば引力、磁力、数式や科学的にみるもの、外から解読する見方。
自動詞的現実、
例えば潮の満ち干き、月の満ち欠け、風のうねり、それそのものが自立し動き、現実として立体化しているというものの見方。
愛という言葉なんて特に顕著にその混合が見られるなあと思いました。
柔らかく、繊細なその感情を扱うときに思考停止のような状態になって記号のように連発してしまう。
自分の感じた愛はひとくくりの言葉にならないのに、まあ便利なんですよね、イコールこれですっていいやすいし、言えた気になる。
でも、それで伝わったかなあ?
あるおきゃくさんの言葉であっ、となったんです。
創作をされている方で、彼女自身に出会う前に縁あって彼女の文章を読んだことがあって、物語を詰め込んだものづくりをされていて、ファンタジーでフェアリーでとっても素敵なの。
"愛という言葉の前に陥る思考停止を憎みながら創作していく。"愛"は誰にでもわかる便利な記号で、それを使い分けるのは勝手だけれども、わたしはそれよりも長い言葉で語ろう。"
まさにこの混合についての疑念と信念だなあとほうと息をつきました。
これだこれだ。
確かに満ち溢れているものです。
その括りで語っても、間違いでは決してない。
だけど感じたことを伝えたくて、その言葉を使うとするならば、自分の感じたようには伝わらないから間違っている。
もちろん愛に限った話ではないです。
"ねえこのお菓子、甘くて美味しいね。"
お菓子はいつでも甘くて美味しい。
甘くて美味しいのが、お菓子。
他動詞的現実。
"こんな薄い氷のようなお砂糖に包まれた、あの笑顔が素敵なひとからいただいたお菓子、かじっただけでこんなに綺麗。小豆の粒が弾けていくのも、星のようで美味しいね。"
わたしの感じた、自動詞的現実。
自動詞的現実という見方を知ったことで、そのもの自身に語らせる、というわたしの言葉についてのうすらぼんやりした目標が明確になりました。
そうしたかったんだなあ。
一粒の石ころにも神様が宿る、なんて思考はまさにそういうところをついてるんじゃなかろうか。
実際に世界の実感として、個人的にはそう感じるのです。
宮沢賢治に惹かれたのも、そう。
彼のことはもちろんずっと好きだったんですけども、ここのところ、そういう思考の相似から惹かれているんだというのがわかってきて、どんどん彼が好きになる。
大人になって思考の範囲が広がり、深まり、むかしから知ってた彼の輪郭が際立ってきて、こんなふうに影響されてたこともわかってないまま考えることを続けていたのですが、うわあ、よく考えたらこれもあれも、彼の物語のなかにある哲学じゃないか、と気づき続けている。
記号で括るのも、間違いじゃない。
正解と不正解がある世界もある。
わたしはそうじゃないところに、挑戦したいのだ。
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