お昼前、霜の溶ける音を聞きながら絵の具をべたべた塗りたくっているとピチクリピーと小鳥たちが大騒ぎをしているのが聞こえた。
近ごろとんと聞いていなかった小鳥たちの声。
ついに冬の小鳥がやってきたのだ。
夏の初めまではうぐいすがいて、暑くなってくるとだんだん減って、秋には小鳥はあまりいないようだ。
それはなぜわかるかというと、まず第一にさえずり、第二に秋のあいだ大挙してやってきてはなぜか窓のそばで絶命していく屁こきのカメムシどものご遺体がいつまでもそこにあるから。
やつらのやってくるあいだは窓のそばで絶命してゆくご遺体の掃除から一日が始まる。
毎日ボウルいっぱいぶんはあろうかという量を窓の外に掃き出す。
秋は小鳥があまりいないのでそれはいつまでもそこにいる。
たとえば秋晴れの気持ちのいい日にうかうかと浮かれているところにひっくりかえっているご遺体の群れをうっかり見てしまうのはいつまでたってもいい気持ちのするものではない。
なぜだかわからないがご遺体はみなひっくりかえっているので足の節や腹の波模様がよく目立つ。
でも冬の小鳥たちはそんなご遺体をみな綺麗に掃除してくれる。
雪が積もって地面が白くなり、家の中に薪を運び入れるとき、薪の間で冬眠している屁こきどもを振るい落とす作業をするが、冬の小鳥たちは白い地面に黒く点々と落ちた屁こきを綺麗に食べてくれる。
雪の上にかわいらしい小さな足跡をのこしてゆく。
それがきゃつらの墓石である。
冬の小鳥たちはいつもお腹を空かせているらしく、屁こきを振るい落としていないときでも薪の積んであるあたりをうろうろしている。
それは足跡でよくわかる。
今年はお掃除のお礼に鳥の餌を撒いてやってもいいかもしれない。
そしたら冬の小鳥は来年はいつもより早くやってくるかもしれないし。
不勉強で冬の小鳥がなにを喜ぶのかよくわからない。
なんとなく食べそう、というイメージで雑穀と米とを撒いてみたことがあるが小鳥たちは手をつけなかったようだった。
以前読んだ本の中の小鳥たち、谷崎潤一郎の春琴抄や、特に小川洋子のことりなどでは小鳥たちの世話の難しさをとくと解く場面が印象に残っている。
あんなおちびたちはおちびであるからこそ繊細なのだなと思っている。
小鳥愛好家のなかには自分で巣箱をつくったり、水浴び場や餌やり場を肩ほどの高さに平たく作るひとたちもいるんだそうだ。
でもいつかはにわとりを家族に加えたいと引っ越す前から考えているので、そうすると小鳥たちの場所を作ってもそのうちににわとりに追われてしまうのかもしれない。
うちに来るにわとりの名前はピヨ彦(ぴよひこ)ピヨ仁(ぴよじ)ピヨ三郎(ぴよざぶろう)と続けていこうとずっと前から決まっている。
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