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  • 執筆者の写真すずめや

川と遊んだ話

香嵐渓

というからには渓谷でして

最初の日と、最後の日に、川に遊んでもらいました。


前日のイベントのあれやこれやでもうほんと根性でどうにかするしかなくって

会いたい人もいるし間に合わせなくっちゃだからイベント後にもかかわらずほぼ徹夜で向かいまして

あれやこれや、で(またかくです)

谷に着いたのです。

ちょっと待っててねタイムがあって

そのときは特に親しいひともおらんかったので

ふらーっと、文字通りふらふらーっとしていたら

川に降りられる階段が幾つかあって、そのうちのひとつに降りたのです。

はじめはすわってぼうっと、ひさしぶりに大きい自然の中にいたから、空気に浸っていたのです。

そいで、ちょっと充電できて、動くことができて、川の水に触れました。


おおきなおやまからどくどく流れてくる強い水、綺麗な澄んだ水、手を浸したらふしぎに、細くて骨のないちいさなさかながずっと指の間をすりぬけていくような感じがしました。

そのちいさなさかなは、たくさんになったりすこしになったり、いなくなったかと思えば戻ってきて、ずっとずっと楽しませてくれました。

どくどく流れる水が強くなっているところは泡立っていて、そこに腕まくりをして手首まで浸したら、あわつぶと澄んだ水がまるで腕輪のようになりました。

ここへ来るきっかけになった作家さんのつくる腕輪のようで、けれど水は絶えず動いて身につけるのは無理そうでした。

両手を浸して、気づいたらいくらか眠っていました。暖かい日でしたので、冷えることもなく、うつらうつらしている意識の中で、手首から先が溶けてなくなったような気がしていました。


最後の日の朝

泊まらせてもらった小屋からすぐ、ほんとうにすぐのところに川べりがありました。

香嵐渓の自慢だという珈琲を紙コップに淹れて、川のそばに行ったのです。

はじめはおとなしく流れを眺めておりましたけれど、やっぱりむくむく遊びたくなってしまって、珈琲はみくちほど残して、川の中でごろんごろんしながら体を半分出しているような岩の上に乗ったり止まったり立ったり座ったりちょっと飛んでみたりしてしまったのです。

岩の場所によっては川はおとなしく水溜りのようになっていたり、またぶくぶくとしていたり、なめらかな絹のような手触りだったりして、また、ずっとずっと楽しかったのです。

ひとりで、きたこともないこんなところで、遊んでいることもよかったのだと思います。

ここへきて出会った人のことや、もらった言葉なんかを思い出してじっと冷たい岩の上でおやまを眺めていました。

さて、よかった、香嵐渓ありがとう、そろそろしたくをするぞ、と踵を返した途端に川に落ちました。

片足だけで済みましたけどね。

ええ、次の日は横浜に行くので、とわざわざもってきた赤い靴でしたけどね。

関西に住んでいるから最後に落ちをつけたのでしょう、あの川は。

気が利いてますよね。


こうやって遊んでもらったことを、

夕闇と朝の光の中でどくどく流れる大きなものに遊んでもらったことを、

また、この日々が大きな転機になるという予感よりも確信めいた感を

わたしのいままで、いっぱいいっぱい学んだことを、

ずっとひとりで学び続けてきたこと、修行し続けてきたこと、使っておそとにだしたい、と強く思います。

もうひとりだけの理解から外れて見せていかなくちゃいけない、きっとカムパネルラのいう、ほんとうのしあわせ、をわかっていると思う、ありえないくらいの数多くの出会いがみんなおそとに向かわせてくれている。ほんとうのしあわせのこと、わかるひとは多いほうがいいんだから。

かいたんだ。「よるのたばこ」



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