ちかごろは晴れの日も多くあったかくて幸せなのに。
今年は窓のすきまを目張りすることで秋の屁こき野郎(カメムシの野郎)の侵入を最小限に抑え、もう奴らを恐れることはないとたかをくくって春が来たと浮かれて一部の窓の目張りをといてしまったのだ。
そしたらなんと、春でもやつらは侵入してくるのだ。
秋の侵入は冬を越すためということで奴ら側にもしょうがない理由があるのはわかったのだけど、春はなんなら外の方があったかいわけだから目張りを解いても中のものたちが出てゆくばかりで家の中は安泰だと気を許したが間違いだった。
目張りをといた窓のあたりにわんさといやがる。
どうもやつらは白という色が好きなんだそうで、窓のそばの障子紙の白さやレースのカーテンの白さに惹かれて侵入してきている。
レースのカーテンにひっつきまくってるやつらはなんか足で踏ん張ってレースの繊維を掴んで剥がしづらいし屁をこく際に謎の汁を出すやつもいて、白いカーテンが茶色い汁で汚されて、本当に腹が立つことを重ねていきやがる。
気温が上がっていくので動きも活発だし元気でむかつく。
外で舞えよ!作業場で舞うな!
羽音で気が散るんだ!
軍隊で来るな!
こっちに越してきてから本当に日々平穏で幸せというのに満ちたくらしであり、憎悪と無縁の毎日であるためにひとたび抱いた屁こき野郎どもへの憎悪がいたずらに燃え上がっている。
むかつく、という感情作用はもしかすると人間の生きていく時間には必要な作用なのかもしれぬ。
だからむやみに屁こき野郎に憎悪するのだ。
そこ以外にむかつくことがないんだもの。
しかし、というか、これは、怒るのトレーニングなのかもしれないと思うこともある。
怒るのが苦手だ。
その感情はわたしにとってあまりにでかくいびつすぎて、ふだんの心のすぐ出せる引き出しに常備するのはとてもできず、何重かにくるんでしまっておく類のものだ。
でもこちらにきて日々心が平穏であるために、なんかどっかに収納のゆとりが出来て、じゃあこれを出し入れしてみようか、という段になったのかもしれない。
むかしは幸せを感じるというのも苦手だった。
笑うのも嫌だった。
わたしごときにふさわしいものでないと思っていた。
その時期は、今思えばだいぶぼろぼろだったのだ。
こうやってあけすけに、恥ずかしげもなく、幸せといえるようになるまでの道のりは、今思えば回復への道でもあったように思う。
(まあ視点違わば別の道でもあるが)
(いつでも視点が変われば物語は変わる)
とにかく健やか、というのは本当に強いことだ。
なんでわたしはこんなとこでこんないい仕事をしてそれを生業にこんないい家で幸せに暮らしてゆけているのだろう。
近ごろはとみにそれを思うけれど、謎だ。
つまり、人生は思ったよりも長くて起伏に富むのだ、とどこかで聞いたような台詞しか出てこないのだ。
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