引っ越して一ヶ月がすぎました。
怒涛の日々を超えて、もうすぐ出張もはじまるし、片付いていないことは多々あれど、暮らしは落ち着いてきました。
ずっと家を探していた感覚がある、
帰ってきたい場所を探していた感覚がある。
縁もゆかりもない場所に住んで、美しい風景に日々圧倒され、籍を独立し一個の家庭になった。
暮らしは穏やかで明るく健やか、かつてない愛着がここにはあって、もう家はここになった。
なんでずっと家を探していたのかなと考えた。
飲食店の子にうまれた。
うまれたころは店の裏の小さな小さなおうちに住んでいた。
部屋はふたつに台所、物置があるだけの小さなうちで、わたしと妹のための二段ベッドで埋まるような小さなうちだったけれど、押入れの中はとても良い冒険の場だったし、二段ベッドは断崖絶壁に変身したし、物置のスペースには買ってもらった本がたくさんあって、息を潜めて読むのは楽しかった。
庭にお砂場があって、その後ろを通り抜けると店の庭に続いていて、なんとも探検のしがいのある、広がりのあるちいさなおうちだった。
妹がふたりになり、両親は(おそらく)すごく頑張って、20メートルくらい離れた場所に広くて大きい家を建てた。
ちいさなおうちは従業員の休憩場所になり、お風呂は閉ざされて、台所の上にはお店の荷物が積まれるようになった。
新しいうちには庭もあったし、洗濯物を干すための小屋もあったし、システムキッチンで、明るく風通しの良いぴかぴかのうちだった。
ピアノも置けたし、寝室も、こどもたちそれぞれの部屋もあったし、父は書斎を持った。
けれどこのぴかぴかのうちを、たぶんわたしは好きではなかったのだ。
広がるタイプの楽しみというのが少なくなり、広くなったぶん人と人との距離が空き、なんだかぽつんとしてしまったようだった。
両親は本を買ってはくれるけれど、彼ら自身は本を読まないということにも気づいた。
ちょうど"モモ"の寂しくなってしまった世界の描写のようだった。
それでずっとうちを探していた。
時が立ち、お砂場は無くなってしまった。
牡牛座は五感の星で、衣食住を重んじる、ということになっている。
気持ちのいいものに包まれて暮らすこと、自分が美しいと思うものを手に入れること、美味しいものを食べること、それが人生において最重要と言っても過言ではないそうだ。
よくわかる、ほんとうにそうなのだ、わたしの場合は。
その場その場で必死にそのときの自分ができる限りの衣食住を整えてきた。
けれどいつもいつも満足のいくものではなかった。
満足までいくためにはお金も時間もなかったし、場所がそもそもなかったのだった。
いろんなアパートを、今思えば転々とした。
そして小さな古い路地に落ち着いたけれど、そこでは暮らしは二の次で、お店のほうが主体となって、暮らしを楽しむことは、ひとさじぶんほどの量であった。
いま、縁もゆかりもない遠くに急にきて、なんでだかすごく落ち着いている。
たいへんなことばかりなのに、だって床は抜けているし虫の襲撃にあうしお金はどんどん飛んでいくし、なのになんでだか。
たぶん日々がとても美しいからなのだと思う。
風景はもちろんだ、遠くを見ても近くを見ても美しい。
岩手の自然はどうもいままで見てきた風景を考え起こしても飛び抜けて美しいように感じる。
日々の暮らしには手間がかかる、珈琲豆を煎ればとんでもない量のかすが出る、伸び放題の草木を刈る、家は掃除しても掃除しても永遠に掃除が必要なくらい。
でもここには協力がある。
いままでひとりで必死に暮らしを整えようとしてきたけれども、もうひとりいる。
それぞれの仕事をして、それぞれの成果をあげることで暮らしがどんどんよくなっていくさまは、お山のみどりにも匹敵するほど美しいことだ。
物音がしたのを座敷童の仕業と決めつけてかかったり、ラクトアイスはアイスじゃないという主張を聞きながらアイスクリームを食べたり、お楽しみも十分すぎるほどある。
場所やものだけではおうちはおうちたりえなかったようだというのがよくわかった。
ほんとうに健やかでいるためには街から離れることがわたしには必要だったようだ。
しんからの健康をいま持っているような気がしてならない。
不思議なことだ。
パートナーは急に人生に現れた。
このおうちもそうだ。
わたしはずっとこつこつと歩いて、積み重ねていかないとなにかは達成できないのだと思っていた。
そうでもないこともほんとうにあるのだ。
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