骨を通貫して、脳まで凍らされてしまいそうな冷たい冬の日。
焦げ茶色の薄暗い店内の、磨かれた古い小さな木の机の、向かいに彼女が座った。
ほんとに、とても寒いね。
お酒であったまろう。赤ワインください。
生まれて間もない子兎の毛並みのような手袋を取る。
肌理の細かい、白い肌の奥に、体温がしずかに燃えている。
その爪の先が、その日はやけに鮮明に印象に残った。
肌の奥に見え隠れする彼女のあたたかい血流と、それが漏れてしまったような深い赤いろの爪。
彼女の肌だけがひかっていた。
硝子のグラスのひかりなんて、目じゃなかった。
じゃ、乾杯。
笑った彼女がどんな顔をしていたか、覚えていない。
聞いた?結婚するんだって、あの子。
きんと脳が冷えた。
おめでたいね、よかったね、と印字された言葉を吐いた。
恋をしていたのかと問うと、そうではない。
ふたりで会うこともほとんどなかった。
出会い、別れ、すれ違ってゆく多くの普遍的な距離の、友人たちのなかのひとりだ。
出会った場所から彼女が引っ越したあとも、わざわざ連絡を取るほどの関係でもなく、なんとなく遠くに行ってしまった。
ただ、深い赤を見かけるたび、あの瞬間よりも美しく映える赤はいままでの人生でなかったと、わたしの小さな宝石箱の奥の赤を思った。
そういうふうに、特別だった。
あの店のドアはあのあと、開けなかった。
あの思い出だけを持った場所にしていたかった。
そういうふうに、特別だった。
小さな氷や氷菓がふと頭痛を呼ぶたび、彼女を思い出していた。
そういうふうに、特別だった。
お盆休み、あの子に会ったよ。
旦那さんと一緒に、幸せそうだったよ。
嫌になるくらいの夏日が続いた。
そんな折にふとそんな一報を友人が届けてくれた。
わたしの中で尊く神格化された彼女は、そんないきものではなかった。
そんな、お盆休みなんて、結婚だなんて、そんな、ふつうの人間みたいなこと、するの?
急に頭が混乱した。
あの美しい風景を作った彼女、それは私のなかでいつしか発酵し、濾過され、透き通っていた。
とっくにふつうの人間としての彼女のこと、わたしは忘れていた。
あんなに頻繁に、思い出していたのに。
儀式が必要だった。
大切な宝石だと思い込んでいたあの赤は、とっくに液体だった。
仕事帰りに、小さな粒の連なった葡萄を買ってきた。
たっぷりの水を張ったボウルのなかで、ぷちぷち粒をほぐす。
ざるにあげて、水を切って、冷凍庫におさめる。
夜中にそのまま凍っていった。
わたしもぎゅうっと身を固くして眠った。
朝が来た。
葡萄は冷凍庫できちんと凍っているだろう。
儀式をする。
今日は儀式をするよ。
決めてたから、準備したんでしょ。
だけど寝床から、動きたくなかった。
今日が来たことを認めるのに時間がかかった。
喉の渇きが限界にきて起きた。
とりあえず、水を一杯飲んだ。
冷房を切るとどんどん部屋の温度が上がる。
ぱたぱた、汗が落ちる。
硝子のグラスに凍った葡萄をざらざら詰めた。
冷蔵庫で冷やしていたスパークリングの小瓶を取り出して、きゅるきゅる、開ける。
葡萄の上からゆっくり注ぐ。
この葡萄は彼女の爪。彼女の唇。
グラスを傾けたけれど、ひといきにたくさん飲んでやろうという角度をつけたけれど、葡萄は連なって固まって、わたしの唇のなかには入ってこなかった。
ぱちぱちの泡が、そういえば、あの日彼女は静電気を気にしていたな、ということを思い出させた。
浸って、儀式が進まないことを懸念していた。
だからあの日と真逆の暑い日に、暑いまま、あの冷たい日の記憶を飲み干すことにした。
新しいディテールを思い起こすたび、遠くでひかっていたあの風景が、グラスの葡萄に落ちてきた。
杯を進めると、固まっていた葡萄もほぐれて離れていった。
泡の小瓶を飲み干して、赤の小瓶を取り出した。
凍った葡萄は深い赤のなかに溺れて浮かんだ。
思い通りにもう、深く傾ければ唇のなかに冷たい葡萄と冷たい赤いろが流れ込んできた。
凍った葡萄を噛み、頭がきんと痛んだ。
冷たい。
小瓶をふたつ開けた。
もう良い気分になった。
冷房をもういちどつけて、部屋を冷やして、寝転んだ。
酔いで弛緩した身体、夏に溶かされた身体がだんだん輪郭を帯びていくのを感じながら少し眠った。
起きると夕暮れ。
肌のべたつきをシャワーで流す。
きちんと下着をつけて、涼しくて可愛くてお気に入りのワンピースをかぶって、お化粧をして、出かける。
薄暗い焦げ茶色の店のドアを開けると、あっけないほどただの店だった。
宝石箱はもう、そこにない。
新しい店に来たような気持ちで、メニューを眺める。
さて、今日は思い出しか摂ってないからお腹が空いたな。
なにを食べようかな。
とりあえずビールください。
もうあの冷たい赤は、洗い流した。

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