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執筆者の写真すずめや

亡き王女のためのパヴァーヌ

だいじなあのこに対する心配ごとが抜けなくてもうもやもやしっぱなし

とにかくはやく顔が見たいです。

つってもなー

これびーちゃんのときにも強く強く思ったけど、家族でもなんでもないもんな。

そばにいきたいのはエゴだしな。

こういうとき、にんげんしゃかいは生きづらいな。

元気に生きててさえくれれば基本的にはオールクリアなんですけどねえ。

ほんとうに家族だったらよかったのに。

ああ会いたいな。


という心の動きがある一方で、

"ふつうに"生活や予定は消費してゆく。

ときは流れる、日々はめぐる。

笑ってるわたしもいるんだ。


こういう苦しいのとき、ラヴェルが聴きたい。

ラヴェルとドヴォルザークとショパンとバッハ(一部)はわたし、つぶつぶ系って表現するんですけど、音のならびが浮いてる水滴みたいで、雨降りのなか、世界の時間を止めちゃって、その雨粒で遊んでいるような、その雨粒を弾いているような曲作りをしているイメージがあって、好きです。

亡き王女のための、なんていまにぴったりやない。

いやこんなふうに勝手に感傷に浸っちゃうのもアレだけどさ、でもなんかで紛らわさしてくれよ、だってこのままむねがつぶれるかもしんない。

そういうふうに救いのために、芸術をつかったっていいでしょう。

わたしだったらオッケーだわ。なんて。


ラヴェルのつぶつぶがいちばんすきよ。

色にふちどられているように感じます。

音符のこと、おたまじゃくしなんて音楽やってた頃仲間内でふざけて言っていたけど、ラヴェルのおたまじゃくしは透明水彩で生きている。

いまそういう軽やかさが欲しい。

この部屋の中で舞ってくれよ透明なおたまじゃくし。

ぼくこういうとき、スピーカーちょっと背伸びしてよかったなって思います。

てっぺんみたらキリねえ世界やとは分かっていますが、その当時、頑張ってかったよね。

ありがとうあのときのわたし。


紛らわし、だ。

起こることそのものに大きいも小さいもなくて、自分の心のキャパシティというか、間取りの問題ですよね。

明日からはずっと楽しみにしてた予定がギャンとくるんだ。

そうだ、笑ってるほうがいい、わたしも、きっとあのこも。

(知らんけど)



なにはともあれ、たのしむぞう。

応。


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