スターバックスにはふだん行かない。
こないだ桃ペチーノが出ていて、桃が好きなので果汁感!みたいな煽り文句に釣られて買ってみたがひとくちでわたしには甘すぎると断念してその足でコンビニに寄り、バーボンをぶち込んで飲んだ。
そういうことの繰り返しでふだんいかない。
ペチーノたちはみな甘すぎる。
でもみんな楽しそうに飲んでいるから楽しめないのが悔しくて足が遠のいているのもある。
でも出張のときに頼りにしているメニューがあって、それはコンパナという飲み物。
エスプレッソに生クリームの入った渋いやつ。
エスプレッソも生クリームもうちにはないし、カフェインと脂質と糖質で完璧なエナジードリンクだし、苦くてまろやかで甘くて大好き。
そのコンパナがメニューから消えた。
メニューから消えてもエスプレッソと生クリームを注文すればコンパナがでてくるのだけど、メニューにコンパナの文字がなくなってしまったのがとてもショックだった。
そのことを今日はインスタにも書いて、その末尾の文章がけっこうよかった。
シンプルなメニューだから、コンパナって名前がなくても作れる。
でも大都会にくたびれたときの明るいスタバのカウンターで、味にもみためにも華やかさがない君が、メニュー表のすみっこで、それでも待っていてくれたようで、目が合うのを楽しみにしていたんだけど、寂しくなるな。
文章を書くときはほとんど自動筆記というか、永遠に続くレシートというか、おしゃべりの延長のようなかんじ。
でもしゃべってるときよりたぶん、文章のほうがちゃんと伝えられるというか、言葉が巧いと思う。
しゃべってるときは何層かの意識があって色んなことに気を取られながらしゃべってるからそうなるのかもしれない。
あんまり読まれることを意識してない状態で書くから、文章を褒められてもなんかどっかひとごとみたいだ。
いっとき詩作や短い文章をつくるのに凝っていた時期があったけれど、コロナ禍になってメンタルダメージをうけてから文章をつくるのができなくなった。
きょうはおわりがけに初めてのお客さまとお話ししていて、初めてのお客さまなのでなんでこれをやってるんですか、みたいなことからお話ししていて、本が好きで製本をはじめたというようなご説明をした。
そしたら、出版とかのほうには考えがいかなかったのですねえというようなことを言われて、あれ、そうだな、なんでかな、と思った。
なんでかな、と思いながらなんかあれがこうだったからだと思うとか言ったと思う。
国語は勉強しなくても満点で作文の賞はだいたいとった、本が好きだし紙も好きなんだからそっちに行ったって不思議はない。
というかこっちにきてるほうが不思議だ。
昨日、この本の作者と友だちになりたい、と強く思う本を読んだ。
なんだか、同類だと思った。
おとなになってから出会える大事な友だちというのは、もうおとななのでだいたいすぐわかる。
わたしの場合はだいたいが出会ってもらってからしばらくはその人に憧れたり好きでいたり気にかけたりしてもじもじしている。
SNSでその人の書く文章を追ったりハートマークを心を込めて押したりしている。
今回一方的に出会ったその人は、少し環境がちがって育ちかたがちがっただけでなんだかよくわかる人だった。
わたしもこうだったかもしれないなんて思った。
で、その人が文筆家で、けさいい文章が書けて、わたしも物書きになっていた人生があったのかなあとぼやーと一日考えていたらしめにそういう質問がきたので、自分の文章のことを考えたのだった。
改めて物書きになりたいかと考えればそりゃあなりたい。
食べるのが好きだからなにを糧に生きていくかというのはそのままなにで食べるかということだと思っている。
文章で食べるというのはとってもすてきだ。
身近に本気で文章を書いている人がいるのでそれが一言で言えるほど能天気なことではないとわかったうえででもすてきだと思う。
こんどの冬籠もり期間にこのたらたら書き殴るブログをまとめて本にしたいと思っていて、冬籠もり前の最後の東京出張でこういう流れがきて、うむいっちょうやってみっか、というきもち。
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