わかんないんだなってことがわかるっていうことが知識のちの字だなと思います。
わかんないことがわかったし、だからこれが正しいんだって思うことも違う側面からしたら暴力になるんだ。
今日はふしぎなお客さまが急にいらして、読み潰した古びたデカルトを何冊も携えて、ここにきたら修復をやっていただけると聞きました、と言われました。
間違った噂でして、わたしは古書の修復は専門外でお力になれませんということをお伝えし、力になってくれそうな方のお名前だけをお伝えしました。
わからないことがわかるようになって、できないこともあるのだとわかるようになった。
それすらわからないまま手を出してめちゃめちゃにしちゃったことも過去にあったなと遠く思い出し、お、大人になれたのかもしれないと思えた。
たまたまやってきた人がデカルトを読み潰すような方だったからすんなりご理解いただけたのかもしれないなとも思った。
付け焼き刃で本当自分が嫌になるんだけど、この戦争のことと重ねちゃって、まあ頭から離れないのでずっとあれなんですけど、どっちがどうとわかるほどわたしはなにもわからないのだなということはわかった。
たまたま手持ちの紙の中に、鮮やかなひまわりの柄の紙があって、それを使ったノートを売ったお金を支援のために使おうか、と考えたことがあった。
いまは、それがよいことかどうかわからない。
どちらかの味方をすることは、どちらかの見方をとるということであって、わたしには、それを選択するための、実感としての知が足らない。
わかったようなことをわからないまま、わかったように言わない、の正義を取ろうかといまは考えている。
これも明日になって、知が重なってアップデートされたら変わる考えなのかもしれないけれど。
恋人のことを、恋人と呼称しています。
それはなぜか、もしかしたら、彼氏、と呼称することは、彼女のいる彼女、彼氏のいる彼氏、その他のかけがえのないパートナーをもつひとたちに対して少しの呪いを含むことばかもしれないと思うから。
ほんとうに、ほんとうのことは、いつでもわからない。
でもわからないなと思うからって、知ることをやめようとしないし、おしまいにもしないぞ。
それがわたしのロックンロールだ。
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