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  • 執筆者の写真すずめや

ばあちゃんばいばい

ばあちゃんがしんだ。

ばあちゃんごめんな会いにはいけない。


ばあちゃんは、まあふたりおったけれども、

ばあちゃんというひとはふたりとも、

人生の良き時期にそばにいてくれた存在であった。

なんどか狂いの時期が来て、そのときには会わなかった(と思う)から、

あったかいだけの思い出がある存在だ。

そういうのってなかなかない。


長き友人であっても長い分だけ苦しいときがかぶったり、そのときだけの付き合いだったり、なんかまあ人生っていろいろあるじゃないですか。だから良き時だけの存在ってまあない。でもばあちゃんはばあちゃんだからすっとぼけたりして、またはほんとにぼけてたりして。

生きていればやなこともいいこともあって、その時に相手とどう過ごすか、自分のメンタルをどうもっていくか、というのをより良い方向にむけていくのが大人の生き方、というような気がしてるんですけどもそういうのがない、そういうころの。


あんまし、家族とはうまくいかない。

なんか価値観があわんしすきなひとたちとはいえない。

だからよきときを分かち合ったばあちゃんには、そんなとこぜったい見せたくないのだ。

ばあちゃんの記憶にあるわたしはばあちゃんの家族たちと仲良くしていたのだ。

だからお葬式には行かないのだ。


ばあちゃんは霊魂になるんだから、きっとこっちにも来てくれるのだ。

自由に空を飛んでここまでくるのだ。

うちにはばあちゃんちにあったストーブがきているから道に迷うこともないはずだ。

ばあちゃんちにむかしいた茶トラの猫に似ている猫もいるのだし、チンチラのマリの顔を見て彼女は笑うだろう。

潰れた顔の猫だってげらげら笑う。


ばあちゃんと最後に会ったのは真っ白い病院の部屋の中だった。

白いレースのカーテンのかかった、何人もいるのになんの気配もない、けれど人間の温度だけがある、部屋の中で会った。

ばあちゃんはまっしろくなってて、ちいちゃくて、ばあちゃんにぜんぜん似合わない白いシーツとメカニックなベッドに寝ていた。

意識があるのかないのか、わからなくて、蝋のような肌をしていた。

よきときを分かち合ったばあちゃんの、そんなところを見てしまった、そのときにそういう後悔があった。

会えてよかったねでなくて、なんか、ばあちゃんとはそういうんじゃなかったなと思ったのだ。

ばあちゃんのそんなとこは、ばあちゃんとわたしの間だけの関係において、みてはならなかったのだ。

会えてよかったねのやつは、まわりのひとたちの視野の話だ。


ばあちゃんと最後に会ったのは、いつでもあのうちのなかだ。

なんでかコンクリの床の、だるまストーブのある台所の、ぽんぽこラーメンを具なしで出してくるあの、薄暗いうちの台所だ。

もちが焼けてて、さといもの、味の素あじのねっちゃりした甘い煮物があって、ばあちゃんはいつもなんかで底なしに笑っていた。いかれてんのかってくらい笑っていた。

ばあちゃんばあちゃん。


お互いあのあといっぱい崩れてしまったよな。

わたしは若いぶんスクラップアンドビルドでよろよろでも積み重ねられたんだけど、ばあちゃんはばあちゃんだからそうもいかんかったよな。

だからいかんよ、ばあちゃん、せっかく自由になったんだからこっちにきて。

一緒にでっけー空でも見ようよ。



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