こないだの催事で久しぶりにしっかりおしゃべりした作家さんがおり、
彼女は以前とかわらずのスタンスでおしゃべりをしてくれていたのですが、
こっちがわがなんだかえもいわれぬ違和感をずうっとちくちく持っていました。
コロナ禍があって、そこらじゅうに、以前通りに戻ろうとするちからとそうでないちからとの作用のギャップがあるよな。
わたしはそうでないほう。
というか、内省の問題か?
コロナ禍以前のわたしのしようとしていたことやこうしていきたいとか言ってた話のつづきをしてくれて、それがいまは全然やりたくなくて、さあ何が変わった??
たぶん、以前は何ものかになろうとしていた。
何ものかになろうとする呪いにかかっていた。
まあ、最初に言葉ありきという話もあるし、祝いと呪いは紙一重ということもあるし、すごく微妙なニュアンスの話ではあるんですが、あるよね、そういうやつ。
わたしだ!と胸を張るため、どこそこの誰々、と凝った名刺を作って配らなきゃならないような気持ち。
SNSのハートマークの数を、投稿遡ってずっと調べるような気持ち。
油断するとすぐみじめな気持ちになるから、はじめは良かれと思ったんよね。
武具のたぐいを身につけたつもりなんよね。
そいで実際万能感つうか、大丈夫だこれで!みたいな感覚も持てる。
でもからだは変化するしさ。
実はしんどくなっていく、肩肘張るのはもたないんだよな。
武士はくわねど高楊枝、
そりゃ、無茶してるんだわ。
その心意気は美しい、それがまずい、気付けない、気持ちがいいし。
お金がなくて飲み屋のおねえちゃんをやっていた時期があって、なんかそんときの消耗に似ている気がするんだ。
かっこつけるのも、ばちばちにきめて自分を高めるのも、それ自体はぜんぜん素晴らしいことなんだ。
君に会いたくて飲みに来たんだって言われたらそりゃ嬉しいし誇らしいんだ。
でも、君ってだれだ?
飲み屋のおねえちゃんの皮をかぶっているわたしだ、嬉しいのはほんとう、中身も喜んでるよ。
けどなんかな。
そうだな、ちょっと安直な例えだけど、スポンジから頑張って作ったケーキ、デコレーションだけ褒められたかんじだろうか。
デコレーションももちろん頑張ったから褒められて嬉しいけどスポンジのことも頑張ったの。
ケーキの大部分はスポンジ部分なのよね。
きみはスポンジも食べるのよね。
そういう消耗かしらね。
そいつに気づいたんだな。
なにものかになりたいと、今は全然思わない。
名前を間違えられても気にならないわ。
ただうつくしく存り、自分を見つめながら生き続けることのほうが、いまは大事だ。
中身を研ぎ澄ましていくことこそが、よりよいものをつくることへのいちばん真っ直ぐで選ぶべき道だと、思っている。
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