今日は賢治さんのお誕生日です。
(岩手っこは賢治さんと呼ぶことを最近知ってそう呼び始めました)
ということで彼を追いかけて移住したいぜ〜とまで言っているんですけどわたしの中の賢治さんの話。
賢治さんのことめちゃくちゃ好きやな??と気づいたのは実は三、四年くらい前です。
それまで無自覚でした。
純文学を好んで読んでいたので、なんというか当たり前にいる人だったんですよね。
気づいたきっかけは装丁を描くようになったこと。
装丁が描けるようになったのってわたしの創作人生(細い糸まで遡れば物心ついてから)のなかでもけっこうな事件というかできごとでした。
自分のなかの、ノートに対する考えとか大袈裟に言えば哲学のようなものを、表現として落とし込むことができた、大きなできごとでした。
それからたくさんのご縁のタイミングもあって、長く食えていなかったのがだんだん食っていけるようになってきて、そこで一回立ち止まった。
なんか、こんなわたくしがそんなしあわせをもらっていいのか、と沈んだんですね。
でも作ることしかできないし、うーん、そうなると、これは大学時代に訓練してしんどかったんですけど、なんでわたしはそれを好きだと思うか、美しいと思うか、その根っこはどこにあるのか、というのを内省により探しに行くんです。
いや、もう少し前からかもしれない。
まあなにせその旅はしんどいものです。
なんどかその旅に挫折した覚えがあります。
よいこともわるいことも、自分のやったことは自分がいちばん知ってるんだもんね。
そいで内省の旅から帰ってきたときに、人生の節々にあった、みちばたの石ころ、その石ころのなかでもあらこれは、と立ち止まって拾ってきて、大事にまだポケットにあるような綺麗な石ころ、それらがだいたい賢治さんのことばだとわかりました。
あ、めっちゃ好きじゃん
超救ってもらってんじゃん
と、気づき。
それから何冊か彼の文章を読み返しました。
そいで、これはおこがましいというか、なに生意気言ってんだ、みたいな気持ちを抱かせてしまうかもしれないんですが、なんか、賢治さんとわたし、気が合うんじゃねえの、と思って。
とてもよい友達なんでねえの、と思ったんですよね。
リスペクトはもちろんあるんですけど、なんか、例えばなにかを見るときってなにかしがの眼鏡をかけると思うんです。
わかりやすいところでは、母としての眼鏡、とか教師としての眼鏡、とか、子どもとしての眼鏡、とか、立ち位置によってかける眼鏡が変わるとして、そういうものだとして、わたしは賢治さんと同じ種類の眼鏡を持っているようなかんじがあるんです。
わかるよォ〜それわかるわかる〜みたいな、となりでサイダー飲んでるような、そんなかんじなのです。
2人で歩いていて、あ、これ素敵〜なんつっておんなじところで立ち止まったり、ねえ昨日の夕暮れ見た〜?見た見た〜!なんて会話がしれっとできたり、すれ違った人のちょっとしたしぐさにお互い反応したりしてくすくす笑い合えるようなおともだちっていませんか。
なんかそんな感じを勝手に受けているのです。
彼の文章がそういうきもちを抱かせる文章なのかもしれないけれど、いやでもこれは、わたしは、なんか、ほかの文豪にはない、たましいの近さみたいなものを感じていて、だからこそ自覚しようとするまで自覚できなかったんじゃないかなとまで思っていたりします。
あんまりわたしはわたしのふるさとに思い入れがなく、ちいさなころから、なぜかここではないどこかに行きたいという気持ちが強かった。
世界はもっともっとほかにあるはずだ、なぜわたしはここにいるんだ、というひねくれが強かった。
旅に出れば解決するなにか、というよりも、根を下ろす場所がここではない、という動物的本能に近いような感じがふるさとに対してずっとある。
対して賢治さんのあのふるさと愛。
あのきもちは、きっと住まなきゃわからない。
住んでわかるかわからないけれど、もしわからなくっても、彼と同じ眼鏡を持っているわたしは、でんしんばしらの会話や又三郎の声、銀河鉄道の汽笛を聴くことができるかもしれない。
ねえもしかしたら、そこにあるのかしらねえ、理想郷なんて言いたくなる風景が。
わたしにもそんなことが言えるようになる場所なのかしら。
早く行ってみたいなあ。
賢治さんお誕生日おめでとう。
生まれてきてくれて残してくれてありがとう。

Comments