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執筆者の写真すずめや

あめのおと

くらがりのなか雨の音を聴いています


京都にかえってきて、

終わらせられなかったまま飛んだ仕事についてお話をしてきました。

自分の阿呆さや浅さが沁みた。


今回の北海道でもそうだけど、

人に頼るとか、協力を仰ぐとか、辛い時は甘えちゃう、ってのが極端に下手くそだったんだなあ〜っていう学び。

それに伴って、自己肯定感の低さからくるフォローの下手くそさ。

知識として知っているのと実践によって学ぶのってなんでもそうだけど全然違いますよねえ。


妖精ちゃんに愚痴っちゃったあの海の日、もうそれ手術だねえ〜って言われて、そうだねえ〜って言ったんだけど、ねえ。

ほんとうにそうだった。

何がなんでこのタイミングであの深い闇にメスが入ったんだろな。

なにかの準備なんだろう、いつでもなにかが起こるときは、もっと大きななの前触れだもんね。

北海道の日々は続きの癒しだった、だからもうひとなみくるかなあ。

嬉しいのだといい。


北海道は、なんだか暗示めいたことも多かったんだ。

神さまのひもがちぎれたこと、銀河鉄道、双子の星、赤いめだま、セロ弾きのゴーシュ、白樺との語らい、ポプラの並木、泊まらなかったお宿、玄関の灯り、老人たちからの連絡、うにそばに小麦そば、天文学と製本のこと、星めぐりの歌、ほたる、夜更かし、おしゃべりなお家とあの星空、なんでか記事ごと消えちゃったブログ。


神さまのひも、についてすこし。

みーしゃんの工房の合鍵に、神さまをかたどった陶器のストラップがついていて、それが滞在3日目の朝にひもが切れちゃったの。

切れちゃったよ、って連絡したら、なんか喜んでくれて、すずめちゃんの願いが叶うってことだよ!って言ってくれました。

ミサンガ的な。

大学の頃からみーしゃんが使っているのにわたしが持ってて切れちゃって、みーしゃんの願いはいいの?!って言ったんですがそれでも喜んでくれていた。

わああ。


そうなんだ、ひとに喜んでもらうの、好きなんだけど、それはひとにギフトを与えるからだと思い込んでいて、ただなにもなくて、わたしにいいことがあったの、ってだけでひとが喜んでくれることがあること、悲しいことがあったの、で悲しんでくれること、励ましてくれること。

それが、ようやくちゃんとわかりました。

他人に対してはその感覚持っているんです、過剰なくらい。

(ひとの結婚式とかもう身内じゃなくても基本号泣してるもんね)

こと自分になるとよくわからんくて。

でも、たぶん、わかった。

わかりたてだからしばらくびっくりし続けるだろうな。


わたしたちは、この世の広さ深さをを学ぶため、生まれてきたのかもしれません。


って、たしか漫画の中に出てきたことば。

ほんとうにそうだ。

でもまだしつこく疑問。

広さ深さを学んだ先に、なにか目的やゴールがあるのかなあ。

それとも学ぶことそれ自体が生なのだろか。

問いについては解がある、といまのところ思っているんだけど、そうでもないのか?


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